銀座から見る都市と文化の関係

※この文章は早稲田大学文化構想学部社会構築論系の近代日本都市論という講義の課題として提出したものです。

 

◆選んだ領域:消費・生活/情報・文化

1.はじめに

埼玉県出身のわたしは、大学に入学するまで東京とはそれほど関わりのない生活を送っていた。埼玉にも大宮のように都市と呼ばれる地域は存在するが、あまりパッとしない。わたしが持つ都市のイメージは、人口が多い、さまざまな施設が集まっている、政治や経済の中心である、といったものだ。日本には都市がたくさん存在するが、世界で注目される都市(例えば東京、ニューヨーク、パリ、ロンドン)と普通の都市の違いはなんだろうかと考えたとき、決定的な違いは「文化」だと考えた。世界で注目される都市はみな、その都市の「文化」を持っていて、それに人々は惹きつけられると考えたからである。

2.銀座に注目

岡本哲志氏は、著書の中で「銀座は世界に名の知られた繁華街である。現在、世界の名だたる有名ブランドが銀座に出店している。彼らが求める銀座像は、歴史ある都市文化としての街の厚みである。」蜉と述べている。また銀座は過去3回焼け野原になっており、そのたびに大きく街並みを変えている。しかしそのたびに全国一の繁華街へと返り咲いてきた。その秘密を探るべく、銀座の文化と都市の関係を調査し、そこから近代日本都市の歴史的特質を述べていく。

3.明治~大正期の銀座

明治に入ると、築地に外国人居留地ができ、開港地・横浜から鉄道が敷かれ、銀座近くに新橋ステーションができ、銀座には欧米からの文明の波が押し寄せていた。そこで政府は明治の大火で焼け野原になっていた銀座に、火事に負けない近代的で西洋風な街並みをつくることを決意し、ここに日本初の近代都市計画である煉瓦街建設が始まった。そうして完成した煉瓦街は、歩道の整備やガス灯の設置など、街を訪れる人に日本の近代化をアピールした。

この時代の銀座で注目すべき重要な文化的要素の一つに「メディアの存在」があげられる。新聞社を中心とする情報産業や、それに関連する印刷・製本業が活躍する場であった。明治期、銀座には百を超える新聞社・出版社・広告代理店が集中して存在した。現在の3大新聞社である、朝日、読売、毎日のいずれも銀座を発祥の地としている。文芸春秋や、大日本印刷もあった。当時の記者たちは地元銀座を取り上げ、記事を通じて全国に知らしめた。そうすることで銀座は街としてますます磨きがかかり、メディアと共に相互に発展していった。現在でも銀座はニュースやワイドショーの街頭インタビューや雑誌などで頻繁に特集されているが、これは明治期からの文化が、現在まで影響を与えていると言えるのではないだろうか。

次に注目するのは「勧工場の出現」である。勧工場とは内国勧業博覧会の売れ残り品を販売するためにつくられた施設だ。銀座だけで最盛期には7軒の勧工場があった。勧工場が画期的だった点は、従来の座売り方式ではなく陳列販売方式を採用した点である。この陳列販売がショーウインドーへとつながっている。明治20年には、銀座にはすでにショーウインドーが街並みの重要な要素になっていた。現在も銀座には世界的にもレベルの高い個性的なショーウインドーがあるが、これが明治期から存在していたとは驚きである。明治から大正にかけて、銀座は勧工場や専門店で大いに賑わっていた。 洋行帰りの画家・松山省三がパリにあるような社交場をめざしてオープンしたカフェー・プランタン(明治四十四年開業)には文化人や、芸術家、新橋のきれいどころが寄り集い、周辺にはブラジルコーヒーで有名なカフェーパウリスタや、資生堂ソーダファウンテンがあった。まだコーヒー、リキュールそのものが珍しかった時代、それらを当然のように楽しめる銀座は、特別な街としての地位を確立していた。銀ブラという言葉もすでに定着している。 明治後期から大正にかけて、歌舞伎座、帝国劇場ができ、文化人たちの集う銀座は、文化的な街としての地位を確立していた。しかしこの後、大正12年9月1日の関東大震災により、銀座の煉瓦街はほぼ全焼してしまった。

4.昭和期の銀座

昭和初期の銀座の最大の特徴として挙げられるのは、百貨店登場に伴う「消費文化のリード」である。銀座通りには、松坂屋松屋三越の3つのデパートが登場した。百貨店は、エレベーター、高層建築、屋上の遊園地といったように、銀座をよりモダンで時代の最先端の街として印象付けた。百貨店は銀座の集客力を強め、その後の銀座の復興、発展に大いに貢献した。銀座の街には、最先端のファッションに身を包むモボ・モガが街を闊歩していた。この時期に形成された銀座のファッション性、流行先取りの気質は現在でも銀座の特徴として受け継がれている。 しかしこの後日本は太平洋戦争へと突入し、数度の空襲を受け、銀座はまたも焼け野原となってしまう。戦後は、米軍に接収されてPX(駐屯地内売店)となったり、米軍専用のキャバレーとなった。この米兵の存在が、銀座に商売を再び呼び戻すきっかけとなり、再び銀座の街に賑わいが戻った。 5.文化が都市に与える影響

はじめに述べた通り、銀座は過去3回焼け野原になっており、そのたびに大きく街並みを変えている。しかしそのたびに全国一の繁華街へと返り咲いてきた。その秘密は何だったのかと考えてみると、それは明治時代から銀座ならではの「文化」が形成され、それが地域に受け継がれ、発展してきたからであるということが出来る。このことは他の都市にも言えることである。都市には都市ごとの文化があり、それに従って都市は形成されていく。その文化が特徴的で魅力的なものであればあるほど、都市も特徴的で魅力的なものになっていくのである。

世界遺産とユネスコの活動

 

※この文章は早稲田大学世界遺産ユネスコの活動」という講義の課題として提出したものです。

1. 世界遺産とは

理念

教育・文化・芸術活動を通して世界の恒久的平和を実現していくことを第一目標に掲げるユネスコ。そのユネスコが、「顕著で普遍的な価値」を有すると認められた文化的遺産や自然環境などを、人類共通の遺産として保護・保存し、国際的な協力および援助の体制を確立することを目指して世界遺産条約を採択した。

目的

世界遺産リストに登録された文化遺産や自然遺産を、人類共通の遺産として破壊や損傷から保護・保全し、将来の世代に伝えてゆくための国際的な協力体制の確立

登録後の影響

・遺跡の存在が世界的に知られ、知名度向上、観光客増加 ・地域経済社会の活性化 ・オーバーユースに伴う環境汚染 ・観光客のマナー違反 ・観光サービス産業の拡大による地域住民の文化や生活様式への影響

2. 今後どのような活動をしていくのか

なぜ、誰のために、何を保護するのか

(1)なぜ保護をするのか

・考古学的に価値があるから。 ・より多くの人々に存在を知ってもらうため。 世界遺産登録に伴う経済効果で観光収入を得るため。

(2)誰のために保護をするのか

・地域住民のため 村人たちは、自分たちの地域にある遺跡の価値を認識出来ていない。これからもずっと遺跡を残していくためには地域住民の正しい知識や愛着が必要である。

・人類のため 価値ある遺跡が、専門家を除いてほとんど知られてないのはもったいない。将来の世代にもきちんと伝えるべき。

(3)何を保護するのか

・3世紀BCからAD13世紀にわたる遺跡(多くは埋蔵されているが、一部壮大な石造建造物) ・人間の手が加えられていない自然 ・グループ独自の織物、音楽、踊り、金属細工

具体的な保護の方法

・農民たちに遺跡についての正しい理解をしてもらう。 ・遺跡の保全に関する子どもたちへの教育活動を行う。 ・遺跡の維持・修復を継続的に行う。 ・地域住民の主体的活動に目をむけた法整備を進める。 ・観光客受け入れのための準備。現金経済への移行など。

物質と精神

※この文章は早稲田大学「学術的文章の作成」の課題として提出したものです。

日本は豊かな社会であるかを考えるにあたり、豊かな社会とはどのような社会であるかを考える必要がある。そこで私は社会を2つの側面から見ることにした。2つの側面とは物質と精神である。

日本にはモノがあふれている。生活に必要なモノはいつでも、いくらでも手に入れることができる。毎日大量の廃棄弁当が発生することからも、むしろモノがあふれすぎていると言えるだろう。物質といった側面から社会を見ると、日本は豊かな社会ということができる。

一方、精神の側面から考えるとどうだろうか。社会は個人個人の集まりである。日本社会が豊かであるためには、個人の精神が豊かである必要がある。ところが、日本人の死因は癌や事故を上回って自殺が最多である。自殺者が多い社会が、豊かとは言えない。

以上の理由より、日本社会は物質面では豊かであるが、精神面で貧しいと言える。

人はなぜ働くのか ―生きるために必要なものを得る― 

※この文章は早稲田大学「学術的文章の作成」で課題として提出してものです。

人はなぜ働くのか、それは生きるためである。人はみな、生きていかなければならないから働くのである。ここでは生きるために必要なものを、そこから人が働く必然性を明らかにしていく。

1つめは「お金」である。人はお金がないと生きていくことができない。人が生活をしていく基礎として衣食住がある。現代社会においてこれらを満たすためには、お金が必要である。衣食住を満たすことは、人として生活するうえで最低限のことである。実際は衣食住のほかにも趣味や娯楽、税金、医療費など多くのお金が必要になってくる。そのお金を得るために、人は働かなければならない。

2つめは「生きる意味」である。人は生きる意味を見失ってしまったら、生きていくことができない。学生生活が終わり社会に出るとき、人は生きる意味を自分で見つける必要がある。そうなると人は、働くことに自分の生きる意味を見出す。つまり、働くことで新たな価値を生み出し、社会に貢献することで、自分の生きる意味を見出すのである。

以上より、人が生きるために必要なものは「お金」と「生きる意味」の2つであり、この2つを得るために人は働くのである。

スマートフォンの害―健康被害と依存症―

※この文章は、早稲田大学「学術的文章の作成」という講義の課題として提出したものです。

 

私はスマートフォンを害だと考える。なぜならスマートフォンは、健康被害と依存性をもたらす可能性があるからである。

スマートフォンが与える健康被害とはどのようなものだろうか。桜井(2016)は、「スマートフォンをはじめとする携帯電話が脳に与える影響」を挙げており、「世界保健機関(WHO)が2011 年に報告しているとおり、携帯電話を耳に当てているときに放出される電磁波によって、脳腫瘍などのがんにかかる確率が高くなる」という(この他にも、肩こり、頭痛、血行不良、視力低下、不眠症などが挙げられる。このようにスマートフォンは、健康被害という明らかな害をもたらすのである。

次にスマートフォンが与える依存性について考える。特に重大な依存性を与えるとされているのはSNSである。SNSは、現代人の「誰かとつながっていたい」という欲求に答えてくれるのである。土筆(2014)は、「インターネットを介した情報のやり取りに時間を奪われ、SNS上の人間関係に翻弄され、スマートフォンに依存する生活は、私たちに何をもたらすのか。」(p.37)と問いかけている。適切に利用することが出来れば、スマートフォンは大変便利な道具であるが、現状では多くの人がスマートフォンに依存しているため、害と言わざるを得ない。

以上、健康被害と依存性という2つの点から、スマートフォンは害であるということができる。

参考文献

桜井さきこ(2016)「西北からのことば スマートフォンの影響を認識して利用しよう!」『晩稲田ウィークリー』6月号、pp.15-16

土筆哲也(2014)「今月のコラム スマートフォンは人間に何をもたらすか」『思想とメディア』65(2)、pp.36-37